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  • 執筆者の写真Ricardo Tommy

言語空間・言語身体、アニマンダラレクチャーに触発されて

去る10月16日土曜から17日日曜にかけて、静岡某所にて「ヌーソロジー×アニマンダラ 静岡古民家リトリート」が開催されました。


NOOS WAVEマガジン

「ヌーソロジー×アニマンダラ 静岡古民家リトリート」紹介記事


川瀬統心ブログ「『自分教』ガイド」

★10/16静岡古民家リトリート・オンライン放送のご案内★


90秒でわかるヌーソロジー×アニマンダラ静岡古民家リトリート



日本一高い富士山と、日本一深い日本海溝のある意味深い地形を有した静岡にて、川瀬統心さんの独自の貨幣論と、天海ヒロさんのアニマンダラのダブルレクチャーとコラボ対談、および懇親会やヒーリング会、水族館ツアーなど、盛りだくさんのイベントだったようです。


詳しい現場の雰囲気は、後日どなたかが感想をアップしてくれると期待して、ボクの記事では本イベントで、「言語空間」について解説されたアニマンダラリトリートレクチャーに触発されて、ボクの頭の中でひろがった「言語身体」について書こうと思います。



「生命論的通貨 男なる通貨を越えて」と題されたアニマンダラのリトリートレクチャーは、

2019年から1年間行われたレクチャーシリーズ「Animandala2019」で解説された、思形ψ9と感性ψ10に、ホ・オポノポノの「ウハネとウニヒピリ」、「内巫女と内審神者」の関係性で説明された精神構造を振り返りながら、

新たにψ11・ψ12の意味と関係性を紹介されながら、そしてψ13・ψ14の構造観にも触れた上で、

通貨という言語が、他の言語空間をつなぐ潜在的な言語であるという紹介をされていました。


Animandala 生命の己読みブログ

Animandala2019シリーズ報告(全5回)記事



時間の上で展開される言語や概念として構造化されていくψ9と、空間の上で知覚やイマージュを膨らませるψ10とが、それらが交差(等化・中和)していくことで、現れるのはψ11・ψ12の「言語空間」ではないか、と説明されていました。

(図参照、リトリートレクチャーの図は天海ヒロさんからお借りしました)





「わたしたち人間は物理空間ばかりをみているが、実は言語空間の中を生きている」

ユヴァル・ノア・ハラリ氏のサピエンス全史を取り上げたAnimandala2019シリーズでも解説されていたように、ネアンデルタール人と違ってホモ・サピエンスが生き残ったのは物語を語れるようになったから、それはまさに言語空間に進出したからに他ならないと。

言語空間とは、現代で言えば、宗教、科学、アート、哲学、文学、などいずれの思想も言語空間であり、自我もワタシという物語、という天海ヒロさんの解説は、2019レクチャーシリーズの総まとめのようでした。



「言語空間=物語性≒人間固有の環世界」であり等化の言語空間は「自己の言語空間」で、中和の言語空間は「他者化した言語空間」という解説を聞いているうちに、

言語空間があるなら、言語身体なる身体観もあるのでは?!とふと思いました。


それは自我の基盤になるものであり、ψ11ー12であるなら、凝縮化されるのはψ5ー6なはずで、5ー6はまさに自己の視線の始まりの場所でもある。そこをψ11ー12の言語空間が凝縮化して潜在的に支えているというのは納得のいく構造ではないか。

しかも、

自己の成長において、一度ψ11ー12まで成長した自己意識の言語空間があらためてψ5ー6に差し込むし、

親となった自己の言語空間が、子供の自己視点の形成を文字通り支えるし、

社会の言語空間(超自我)も個々の自己に射影されて、個々の自我形成にも影響を及ぼす。

そういう親→子、社会→個という繰り返しが言語空間と自我の形成をより深めたのではないかと。


でも調べてみたら、実はAnimandala2019レクチャーシリーズで、天海ヒロさんがすでに「自我=言語身体」という言葉で言語空間に生きる人間の身体観に触れていました!(苦笑)


思い返せば、アニマンダラではずっとこの「自我=言語身体」を動物精神という形で例えて解説してきていたので、自我の動物的な精神の話を聞いてきていたつもりが「言語身体」の話をずっと聞いていたんですね!


でもこの「言語空間」と「言語身体」という構造は本当に面白いです。

ボクの三体論は「意識」と「身体」と「空間」の三つの身体性という意味で「三体論」ですが、アニマンダラの「言語身体」は三体論でいう「意識」における身体性、身体観がより具体的に語られるものとなっています。



言語空間は、レクチャーでも挙げていたように宗教や芸術、科学や経済も言語空間ですが、「社会」も言語空間だし、「国」や「世界」も言語空間で、「言語」そのものも言語空間と思われるし、身近なところではテレビなどの「番組」も言語空間だし、なにがしかの作品も言語空間なら、テレビやラジオ、ネットで見聞きするCMもニュースも楽曲も言語空間です。

それを見聞きしている自我の環世界も言語空間で、「自我もワタシという物語」です。


一方言語身体の方はというと、自我が成り立つ基盤がまさに言語身体で、身体像という言語身体もあれば、ジェンダーという言語身体もあり、家庭内の役割という言語身体、学校や職場の立場という言語身体、社会的役割という言語身体などがあります。


言語空間側では、言語を基盤に国、社会、組織、など個別に分かれていく言語空間は自我の環世界にいたり、言語身体側は、自我の身体像にはじまり、ジェンダーから社会的役割まで広がっていく。

言語空間と言語身体は自我で結ばれているようにも見えます。


2021年には言語が顕在化を、22年には空間が、そして23年には言語空間が顕在化してくるという話ですが、身の回りに溢れる言語空間に目を凝らせば、目を凝らしている自分自身の言語身体性も感じ(観じ)られてくるようです。

いや、もとよりそこにずっと存在しつづけてきたのに、見てこなかったんですね。

そしてそれが潜在化ということだったと思いますが、これからは自分たちの目でしっかりと見て/視て/観ていけるようになりたいですね。


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