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執筆者の写真Ricardo Tommy

受精する意識、孕む内在

人間意識は内在化を反復して、意識の身体性の構築途上ではないかと、考えた。

(https://ricardophoton.wixsite.com/triadrone/post/内在化する人間、そして意識の身体化へ)


人体においては意識の基盤はやはり神経系統でその中枢は脳、とりわけ大脳が自我意識を形成している。


ところで三体でいうところの空間(環空間)と相対関係にある身体とはどういうことだろうか。

イメージとしては三体論のロゴの円心図の通りだが、

自我意識が芽生えるまでの身体と空間はおそらく二つの円の円心関係にあったのではないか。

そしてそこに他者が交わってくることで、三つの円による円心関係へと構造が拡張されたのではないか。


身体は空間と円心関係にある、とは。

これは身体を中心におくと、空間に囲まれ包まれた関係性となる。

空間を中心におくと、空間が身体に囲まれ包まれた関係性となる。

わかりにくいが、今、外在として観ている空間を不動の一点としてみるとき、自らの身体は遍在していることとなる。

空間(環空間)と相対関係にある身体とは、本来この後者の観点をもつものではないか。

そして他者存在が関わってくることで、意識は客体化する。

もっと言えば大きな他者が無数の他者を送り込んでくることでその視線と言葉で自己意識は客体化し自我化していく。

そうして身体は一点へと収束され、空間に包まれた感覚となる。



ここからはイメージ遊びだが、

人体においては神経系統は骨格と同様に身体の最奥に位置されているが、これを上述のように反転させると、空間を皮膚が覆い、そこに無数の神経が張り巡らされる。

そしてそこに他者が進入してきて、視線を言葉を投げかけてくる。


表現の是非は別にすれば、

これはまるで、自己の身体とは他者を迎え入れる「膣」のようで、他者とはそこに進入してくるファルスのようだ。

ファルスとしての他者が、膣としての自己の身体の空間に進入してくる。

進入時の摩擦が、客体化されていく空間(環空間→環世界→客体空間/客観世界)ではないだろうか。

自己と他者の狭間に存在し、双方の視線によって存在化し、言葉によって記憶となっていく客体世界。ファルスの挿入による快楽として与えられる世界。

そしてファルスからのスペルマとしての視線、そしてロゴス(スペルマ)としての言葉。

それらを受け止めるコーラとしての脳(特に大脳)。

ファルスからのスペルマ、ロゴススペルマを受け止め、意識にて受精し自我という受精卵となる。

そしてその受精した受精卵は、子宮と胎盤と化した空間と身体によって、意識の身体性を育んでいく。

おそらく客体性はその構造化の過程に過ぎず、主体性に偏ると、胎盤に癒着してしまうし、客体性に偏ると堕胎してしまうのかもしれない。

だから、身体化する意識は主体性と客体性の両方を超越して出生するのかもしれない。


身体性を構築していく意識の身体性とは、人体イメージとは全く違うもののはず。

これまでは内在化を反復するものであったなら、今度は自らの内に、内在性を孕むものとなるのかもしれない。


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