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内在化する人間、そして意識の身体化へ

生命の発生から人間に至る生命進化史は、人間一種の中に(胎内の系統反復や、乳児の身体動作、あるいは意識形態に)射影され(Animandala)、

人類史の人間精神や社会構造の変化は、人間一個人の心理発達の中に射影され(Noosology)、

主観世界に意識の位置がある主体軸の幼児期の意識は、客体化した空間(客観空間)と客体化した身体(肉体)の中に客体軸化した意識として構築された自我に射影される(心理学)

(外に向けた発していた言葉(外言)はいつのまにか意識の中で発する言葉(内言)へと変化し(ヴィゴツキー)、身体反応の感覚は言語化して感情という概念化し(ゴロー)、幼児期の体感は思考の基盤へと内在化する)


この射影されていく構造を内在化とみるなら、人間とは内在化の過程を繰り返して現れたのかもしれず、現在の人間がその発達の中で構築してきた自我意識とは内在化の方向性の途上かもしれない。

では、内在化の方向性のこの先は・・・意識の身体化、霊的個体化なのだろか。

AI技術の発達による意識研究の進展、メタバース技術の発達と普及、脳内意識の対象化と抽出/移植の研究、などの流れは、意識の身体化の幅的な射影かもしれない。

コンピュータ技術の台頭は観察子14の方向の現れだが、観察子13の動向の射影でもあるので、ある意味恩寵だと評したKohsen氏の意図にも符号しそうだ。


三体における身体とは空間と双対関係にある主体軸の身体を指す。意識は空間と身体の狭間に生まれ、射影を反復する内在化という形をとりながらその構造化を進めているのではないだろうか。


意識の構造化、意識の身体化にむけては、空間と双対関係な身体は常に主体軸においてガイドしてくれているのかもしれない。

客体的には神経系統の産物としての意識発生に見え、環境や他者との関係で自我を構築していくようにみえるその様子は、空間と身体によって意識が育まれているともいえるかもしれない。

ある意味、人間意識は、空間と身体という子宮と胎盤に守られながら、意識の身体性を育んでいると言えるのかもしれない。


そのまま意識の客体化が進み過ぎると、本来の身体側がもつ主体軸感覚から乖離してしまう。

かといって空間と身体に意識を回帰させても癒着してしまい、固体化へと向かわない。

だから身体の感覚を糸口に、主体軸の感覚(奥行き)を見出し、構造化(思考)に反映させ、固体化しつつある自我に主体軸を取り戻す、それがNoosologyの言う感性から奥行きを見出すことの意味かもしれない。



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