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  • 執筆者の写真Ricardo Tommy

意志の現実化、と呼ばれるもの

(静岡古民家リトリート・アニマンダラレクチャーに触発されて)


内面化した意志(思形)は自分の行動(感性)が見えていない。

〜すべき、〜であるべき、とよそを見て言うが、自らの身体がどのように動いて身振りを行なっているのかを省みていない。


内面化した感性や情動(感性)は自分の意志(思形)が見えていない。

感じるままの世界にこもって、周囲との差異や、自らの意志との差異に戸惑い、怒り、悲しむばかり。


たとえば、自分の無意識の行動や身振りを意識的に意志をもって捉えられるようになるとどうなるだろうか。


身体の無意識レベルの行動や身振りに目を向けて、その感じるところを推測してやり、向かいたい先に、ともに目を向けてやり、その手をとって歩調を合わせるようになると、したいことができるような、そんな環境やチャンスを自分自身が受け入れるようになり、またおのずとチャンスが舞い込むようになるのではないだろうか。


意志と感性がともに歩むようになると、

目は、意識的/無意識的にチャンスに目を向けるようになり、チャンスを見つけられるようになるのではないか。

顔は、意識的/無意識的にチャンスを欲する顔になるから、周囲も気遣うようになり、間接的なチャンスから、直接的なチャンスから、段階的にチャンスを、環境を与えてくれるようになるのではないだろうか。

行動は、意識的/無意識的に、自らチャンスを呼び込み、チャンスに飛び込んでいくようになるのではないだろうか。


意志が感性とともに歩むということと、意志をもって感性を制することとは、紙一重かもしれないが、まったく違うのだろう。

それに自覚的な人は「実現化」と呼び、それに無自覚な人は「現実化」と呼ぶのかもしれない。


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