ー我々はどこから来たのか。
客観的視点と主観的視点の中で知り得る範囲をもとに、三体論なりに人間存在の来た道と行く道を探りたい。
(繰り返しになるが)
生命発生から人間までの生命の変遷では、生命形態として人類に至り、
人間の胎内の系統発生では、身体形態として人類に至り、
新生児から立ち上がる1歳頃までの身体動作で人類に至り、
1-7歳頃で言語習得に伴い思考や感情の言語化が始まることで人類意識に至り、
以後成長を通した自我構築により人間に至る過程を繰り返して、人間自我意識の確立に至るのではないかと見ている。(ここでは人類とはホモ・サピエンス以外のサピエンス種も含める。人間とはホモ・サピエンスを指す。)
[生命進化と生命形態の変遷が人間身体と意識に射影されている件はAnimandalaを参照]
この変遷は環世界における空間構造(環空間)も同様で、
身体の変化/発生/発達や、意識の発生/発達/成長に合わせて、環空間は構造化/多次元化されていき、直接的空間から間接的空間へ、間接的空間から階層空間(社会構造)へと変化/発達する。
これらの、生命形態→身体形態→身体動作→意識形態→自我構築、の変遷における射影関係と存在の焦点が外在的な存在から内在的な存在へと変化していく過程を、「内在化」としている。
意識/身体体験としての環世界も、生命形態の変遷における環空間の直接的な世界体験の段階から、他者存在の出現と関与、そして言語による概念化と間接化という間接的/客体的な世界体験への変化と見ることもできるので、内在化を客体化の過程としてみる。
ー我々は何者か。
人間は生命の変化の一過程なのか。
人間を人間たらしめている自我意識こそが人間存在なのか。
純粋知覚/知覚正面を基盤とした純粋主観を起点とした存在構造が人間なのか。
外在からだけでも人間が何者かを語るには足らず、内在からだけでも人間が何者かを語るには足りない。
三体論においては、純粋主観の客体化過程が身体形態の変遷となり、客体化した身体構造の変化によって相対する環空間→環世界→客観世界へと客体化することで外在的な客体世界となり、意識は身体と外在世界との関係性における結節点として、主体と客体の表裏の結節点として内在化や客体化を経ながら構造化されていく。意識だけが、身体だけが、空間だけが人間存在にあらず、それらの三つ巴の関係性が人間存在ではないかと考えている。
ー我々はどこへ行くのか。
人間は生命形態の変遷の終着点なのか。
自我意識の確立が人間の終着点なのか。
「終着」と捉える発想は「今」という身体感覚を客体的にみる意識をベースとしており、その意識の半ば「願望」のような「観念」だろう。
ヒントは変遷にあるだろうと思う。
上述したように、これまでの変遷は、形態の内在化→動作の内在化→内在意識の構造化、という内在化と客体化の過程にある。
その過程にあっては、理性が他者視線や言語、概念から「見られている私、流れゆく時間」の客体意識を作り出し、一方で身体は常に環空間とともに「いつでも今、どこでもココ」の感性/感覚で在り続け、その感性/感覚にそった意識が主体意識ではないかと思われる。またこの変化によって、自我意識の持つ客体的身体観と、身体自身がもっている主体的身体観は全く別のものへと変化しているとも思われる。
近代以降、自我が芽生えた一方で、精神疾患が増え社会問題化している様子をみると、自我の中で構築された理性ベースの身体観(身体と空間のイメージ、見られている私、流れゆく時間)と、身体自身の身体観(感性/感覚、いつでも今、どこでもココ)、との乖離が大きくなっていったことに精神疾患は起因しているのではないかと考えられる。
意識の構造化において、客体化の作用が心身の乖離を招くとすると、自我の構築においては、理性ベースの客体意識と、身体感覚の主体意識「今ここ」感の適度な保持は、意識の構造化におけるバランス/あるいは精神衛生、には重要な要素ではあるだろう。
形態や構造から、行く道を推測するにおいては、神経系は重要な要素であろうと思う。
生命の身体形態の変遷において神経系の獲得と構造化は、意識の構造化に深く貢献していることを考えると、神経系の獲得と構造化は、内在化の過程の現れではないかとも思える。
そしてその神経系の構造の中でもうひとつヒントと思えるのがクオリアという現象ではないかと見ている。
クオリアは無意識における知覚刺激の統合と意識の発生の境界現象だが、神経系の獲得が身体形態や動作の内在化を支えたのだとすると、クオリアは意識の構造化における客体的意識と主体的意識の弁証法的統合のヒントになるのではないかと見ている。
意識の構造化とは何を目指しているのか。
変遷を振り返ると、
身体形態の変遷は、身体形態の多様性と環空間の構造性が身体動作に内在化された。
身体動作の変遷は、身体動作と環世界の相互作用が人類意識に内在化された。
人類意識の変遷は、人間意識に内在化され間接的環世界(客観世界の基盤)を構成した。
これらの構造の変遷において、意識は身体性と空間性を構造化しているとも思える。
内在化自体は自我という形態を経由して、客体性(客観世界、他者との交流、言語)と主体性(身体知覚、感性、純粋主観)を窓口にしながら、意識自体が(独自の環空間と環世界を持つ)身体性の獲得の方向にあるように思える。
もしこれらの内在化の変遷が、意識自体の新たな/あるいは別のものの身体性と空間性の構造化を意味しているのだとすれば、それは環空間や環世界を子宮として、人間身体を胎盤として、「意識体」というあらたな胎児を育んでいる過程なのかもしれない。
もしそうだとすると、人間の人生は「意識体」という胎児の胎内発生/発達期間となり、その「意識体」が「出生」を迎えることにより内在化は反転を迎え、新たな世界へと生まれ行くのかもしれない。
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