Kohsen氏Twitter
「口説いようだが、「見る」ことの本来的な感覚は対象を見ている感覚ではなく、視界を見ている感覚だ。このとき位置は4次元にある。視界の内部に自分を入れてしまうから3次元感覚に支配されてしまう。視界を見る感覚が意識に何をもたらしてくるかチェックすること。」
4次元の観る、とは、3次元の視界自体を観るという意識。
(この文章では
4次元の視線を「観る」、3次元の視線を「(意識で)見る、(眼球で)視る」
見る方向性を「視線」、見ている焦点を「視点」、見るの発信位置を「視座」
と使い分けます)
Ricardo Twitter
「3次元の360度の視野は、4次元の一本の視線に集約される。4次元の視線は3次元の視線に射影されているが、3次元の視座とは視覚のみならず、体感全てのことかもしれない。」
3次元の視るには、4次元の観る、が射影されているだろうと思われるので、3次元の視る、は、4次元の観る、を模索する重要な足掛かりではあるだろう。
一方で人間意識における外界知覚認識は、クオリアのように、視覚だけではなく視覚・聴覚・触覚・嗅覚すべてが統合して成り立っている。
(味覚は触覚の延長として触覚に含めて考えている)
また、先天的でも後天的でも共感覚においては、感覚知覚の相互互換も起こり得ることから、人間意識においては視覚・聴覚・触覚・嗅覚を統合して外在世界(環世界)を認識している。
三体の頭身体、腹身体の観点からみても、触覚・嗅覚は腹身体系、視覚・聴覚は頭身体系と考えられる。
触覚と嗅覚はともに皮膚ベースだが、触覚は文字通り触れる感覚、嗅覚は皮膚ベースの遠隔知覚。
聴覚と視覚は、大脳系遠隔知覚だが、聴覚は遠隔だが触れる感覚に近い知覚、視覚は文字通りの遠隔知覚。
身体においても、直接知覚系と遠隔知覚系が、身体側と頭側で似たような知覚構造として分かれて確立されているのも面白い。
そういう外在世界を認識しているワタシを、3次元に位置させているのが3次元意識、4次元に位置させているのが4次元意識なのではないかと思う。
3次元の視線では、ココ(起点)と奥(終点)は幅化して距離があり、時の始まりは今よりずっと過去に遠く見える。
4次元の視線では、「ココ(起点)」と「奥(終点)」が、「始まり」と「今」が一点同一視される持続的奥行きとして観えるのだろう。
もしかしたら、4次元の視線を幅化するために、3次元では、視覚・聴覚・触覚・嗅覚に分離されているのではないか、とも思える。
Kohsen氏は、ヌーソロジー・サロンで、3次元と4次元は対化だと言っていた。
時間と空間も対化だと言っていた。
3次元視座と4次元視座は、感性の視座と思形の視座とも言えるのかもしれない。
(ただし、3次元視座の中にも感覚の視座と理性(概念)の視座という視座もある上に、経験的自己と経験的他者の視線も交わっているので、安直に感性の視座と思形の視座に回収してはいけないのかもしれない)
ワタシ自身の生きる現場に立ち、3次元世界を認識するには視るだけではなく身体感覚を総動員して「感じて」、さらにそれを4次元の位置から観るためには、身体感覚全ての「感じ」を4次元から「観じる」、そういう両方を同時に見るような、半眼的な眼差しが必要なのかもしれない。
「視る/見る」ことは、「観る」ことの重要な示唆を含むので大事な観点だが、「視る/見る」だけでは、「観る」ことはできないのかもしれない。
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