自 意 自 我
我 識 意 識
無意識 無意識
精 神 あるいは、 精 神
自我と意識は無意識の上に成り立ち、無意識は精神という全体構造の一部の構造だと仮定して。
三次元的な空間感覚を成立させる身体の知覚器官や、時間感覚を成立させる時間概念が成立する上で、自我概念は成り立つ。
「わたし」を認識する際には、「わたし」では無いものを認識できている必要がある。
また、「わたし」を位置づけるとき、「わたし」以外の存在との関係性を認識できている必要がある。
前者は、空間知覚および物理知覚的な認識が成立するという条件を指す。
触覚は、物体の凹凸を認識することで立体感を知覚し、視覚は距離感を認識することで遠近感(奥行き感)を知覚し、聴覚は音の変化により時間感覚を知覚する。
これらの知覚は全て、自己と非自己が識別されるという大前提の上に成り立つ。
後者は、存在物同士の関係性の認識、またその関係性における意味性、価値観を認識する能力を指す。
価値観や意味性は、存在物同士の関係性や、時間的経緯という概念の上で成り立つ。
また関係性の概念は、存在物を知覚する、空間感覚や時間感覚の上に成り立つ。
では空間感覚や時間感覚は普遍的な概念なのか?
私たちは、物質に立体感を見い出し、空間に奥行きを感じ、自らの身体が空間に物理的に位置を占める構造物だと認識している。
もちろんこれはこの科学的世界観の中では正しい。
しかし、私たちが知覚、認識するものが絶対的な現象ではないことは、科学的観点からでも推測出来る。
触覚神経は皮膚の内部に存在し、物質に直に触れて知覚することはない。また神経自体が知覚を生じさせるわけでもなく、刺激の総合的観点から、触覚感覚が発生する。
視覚は、光刺激を受けることで視覚知覚が発生する。その構造上視覚は光を介して間接的に対象を観察する。
知覚した対象を間接的にしか認識できない上に、視覚器官には様々なフィルターがかかっている。
視覚細胞の構造上知覚可能なカラーレンジに制限があったり、知覚可能な物理的サイズに制限があるなど、見た光景が必ずしも外在世界を正確に認識しているのでは無い、どころか私たちの視覚では外在世界の真実の姿を見出すことは出来ない。
聴覚は、その構造上やはり知覚可能な音域に制限がある。また聴覚対象は音自体であり、音源自体を認識するわけではない。
こららの事実に加えて、私たちが無意識に認識している、空間感覚、時間感覚は、私たちの身体の知覚器官を通すからこそ得られる知覚認識であり、精神が身体を通して無意識層を形成し、無意識層上に意識層が形成された上で自我概念が形成されるのだと推測される。
身体を通して知覚するから、物質は立体感を帯び、場は空間として奥行きを醸し出す。それらをベースに音が時間を奏でる。
私たちは、この世に生まれた瞬間から、モザイク状の外在知覚をひとつひとつ紐解き、自己と非自己を見分け、物の立体感を感じ、空間の奥行き感を発見し、音とともに時間の流れを意識するようになる。
私たちは身体を通すから世界が三次元空間だと認識できるのだ。
そして、そういう知覚認識が、「わたし」を「わたし」として成立させている。
「わたし」でないものからの「わたし」の切り離し。
「わたし」でないものと「わたし」の関係性の見い出し。
「わたし」でないものから見つめられ、見られる「わたし」。
見られる「わたし」としての位置づけの確立。
見られる「わたし」たちの共有空間の形成。
この流れの中で「わたし」は「あなた」を見い出し、また、見る「わたし」と見られる「あなた」、そして見られる「わたし」と見る「あなた」という双対構造もまた現れてくる。
「わたし」たちは、「わたし」でないものから切り離れてからずいぶん遠くまで来た気になっているが、もともと、いや実は今でも、「わたし」は外在世界と呼ぶ場の反対存在としての同一存在なのだ。
そして、「わたし」と外在世界の関係の構造と同様の「あなた」とあなたの外在世界という構造として、「わたし」と外在世界の構造の中に双方に絡み合い組み込み合って、世界を構成している。
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