生まれてから少なくとも小学生まではキリスト教文化にいたにもかかわらず神と言う概念が掴み切れずにいた。
なんとなく、でも人間的過ぎる神は理解出来なかった。
学生の頃、神を宇宙と言うシステム自体と仮定した方がしっくり来る気もしたが、今度は宗教の説く神像との整合性の取り方がわからなくなった。
みんなやたら人生の意味を問うが、そりゃボクも上手く物事が進まない時は何故思う様にならないのかと神に噛みつくこともあったが、意味とは本人の捉え方の問題であって捉え方は本人の裁量に任せられていると考えれば、人生の意味は有って無い様なものかもしれない。
逆に何故これ程までに様々な状況が起こりえるのかと考えてみたところ、認識の相違が引き起こす事象が多いのだろうと考えた。
では何故認識に相違が発生するのか。
それは自己と他者には絶対超えられない深い溝があるからであり、私たちはその溝の
存在に蓋をしたつもりになってコミュニケーションを捉えている。
では自己の世界で完結してしまう私とは一体何を感じて見ているのか?
世界で起きている様々な現象は知覚においては差異というシステムの上で成り立っているのだろうと考えた。
例えば、善悪の概念は社会的、もしくは個人にとっての都合に左右されることは、歴史を振り返れば理解できる。
同様に様々な価値基準が、人間の都合によって変化してきている。
変化しているものに絶対的基準を求めていいのだろうか?
概念の問題に限らず、私たち生体においては、知覚感覚も差異というシステムの上で成り立っているのではと考えた。
熱湯をたぎらせているヤカンが「熱い」のは私にとって「熱い」のであって、灼熱の太陽の温度とは比べるまでもなく「冷たい」。
例えを挙げればきりがないほどに、生体における知覚はそのほとんどが差異というシステムの上になりたっている。
そこでもう少し調べてみたら、実は知覚器官そのものも差異で知覚が発生する仕組みになっていた事を知った。
もっと言うと、私たちの人体も原子レベルでは、周囲の空間との差異で区別されており、私たち自身が、世界との差異として成り立っているのではないかと考えた。
極論すれば、この世の現象すべては「差異」として現れているのではないか?
では何との「差異」か?
いや、むしろ「差異」自体がそのシステムなのでは?と考えてみた。
こういうシステム構造のどこかの側面を、もしくは全体を「神」と称するのは人間の勝手としても、この構造のどこにも「神」が人間的である理由は無い。
だから尚更、宗教や精神世界で言われるような愛を中核とした様な「神」の概念が理解しがたい。
愛を否定などしない。
だけど、愛を語るなら、それはきっと構造としての愛であるのだろうと思う。
「光あふれる愛」は、ただわからないものを「光」として片付けてしまっているだけで、見たくない構造を無意識に閉じ込めたのと同じことだと思えてしまう。
私たちは無意識という構造に、ありとあらゆるものを押し込めてしまってきている。
同様に、高尚な精神としての「愛」より先はすべて「愛」もしくは「光」としてまとめて括ってしまっている。
それでいいとは思えないし、一方で人間的で情緒的な神を引き合いに出しても説明にならない気がしてしようがない。
今こそ私たちが見まいとした事柄を、改めて見い出し見つめ直す作業が必要ではないかと思う。
そこに「無意識」や「愛」や「光」や「神」はいらない。
まずは、自分たちの目でしっかり見ることから始めなければ。
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