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執筆者の写真Ricardo Tommy

意識と身体と世界 -Recursive Triform-

客観から主観へ


客観的視点の現代科学で捉えられているこの世界は「135億光年前に宇宙が誕生し、膨張と共に四次元時空(三次元空間+時間)が形作られ、素粒子から物質が構成されて、今ある世界の姿となった」とイメージされている。

科学の客観的視点とは第三人称の視点であり、ワタシ(第一人称)とアナタ(第二人称)のそれぞれの主観の中で共通認識をもって観ている(だろうと思っている)世界を、さらに傍観している視座だ。すなわち、客観は主観の中の想像的な視点だ。私たちが世界を観て捉えられているのはあくまで第一人称としてのワタシの視点、主観を通してのみだ。

(厳密には主観にも客観性は含まれているし客観はそれを支える構造があるから成り立っている。客観には主観が幻の様に捉えられるし、主観には客観が幻の様に捉えられるが、共に創造され成り立つ構造を持つ。)

では、第一人称のワタシ、自我の主観はこの世界をどの様に観ているか。私たち人間は身体を通して世界を観て感じている。身体では、五感覚を通して世界を知覚し認識している。そして知覚には制約がある事は現代科学でも知られている。

視覚には可視光線、聴覚には音波の可聴域といった知覚幅がある。触覚にも知覚出来る大きさや温度の限度がある。触覚は平面(二次元)である皮膚表面で三次元知覚を構成しているし、視覚も二枚の二次元の射影像を組み合わせて三次元知覚を構成している。聴覚は音を直列で知覚する事で時間概念の基礎を形成するし、視覚と聴覚が組み合わさる事で時空概念が形成されている。


身体を通して観た世界が「広大な宇宙空間があり、星々が空に煌き、青い空に太陽と月が輝き、雲が漂い、木々が風になびき、青々と自然が繁り、生命に溢れ、愛しい人も憎い人も目の前を行き交う」のは身体が人間の形態だからだ。別の形態の生物なら、まるで違う世界を視て感じているのではないかと考えられる。外骨格の甲殻類にはそよ風の優しさや、木の葉や草の柔らかさは存在していないかもしれない。超音波を観るコウモリの感じ取る世界は全く違うもののハズだ。

観て感じる世界によって、構成される意識の構造も変わってくる。今目の前の在り様で世界が観えていて感じれられているのは私たちが人間だからだし、私たちが人間だから世界がこの在り様で観て捉えられている。



知覚、認識と五感覚


意識の構造を追うのに、ある二つの考え方を導入したい。

一つ目は「概念の木」(造語)。これは、ある概念が成り立つ背景には必ず下地となる概念があり、その下地となっている概念にも同様に下地となっている概念が···という様なピラミッド型の関係構造が描ける考え方だ。



もう一つは「相反共存」(造語)。主観と客観、偶然と必然、精神性と物質性、等々。これら一見相反する各対項目は、対立すると考えるより、ある現象の両極面の現れだ、と見る考え方だ。

知覚が認識と成る過程は次のように考えられる。




新生児段階では、世界に対する概念は何ももっていない為、視えたものが何なのかはわからない。リンゴを見たとしても、紅く光る何かとしか感じないかもしれない。それが球体なのかもわからないかもしれないし、自分とどれほど離れているのか、食べれるのか、どんな味なのかもわからない。(そもそも球体、距離、食べる、味わう、などの概念も無いかもしれない。)


それが発達するにつれて、触れて感じ、視て感じ、かじって感じ、噛み砕いて味わって感じ、また別の種類のリンゴを食べてみたり、様々なシーンでリンゴを食べてみることで、それらが総合されてリンゴとしての認識が構成されていく。

この様な意識の構成過程は、人間の発達過程にもみてとることが出来る。

新生児からの発達過程では、特徴的な段階を経ながら各感覚器官は発達するし、それに伴って意識における存在的な世界という概念も構成されていく。

乳幼児の初期段階では手に触れたものは何でも掴んでみて立体感を感得し、顔面上の触覚の代表格である唇にも触れさせることで触覚感覚が発達していく。


(余談だが、顔面は五感覚が段階順[口→(舌)→(鼻)→目→耳]にすべて集まっているし、五感覚を統べる脳が配置上も最上位に鎮座している非常に特異な部位だ。)


触覚は立体概念の基礎を構成する。視覚の発達段階では、触れたものを視て、明暗や色合いによる空間と立体物としての構成を生成する。触覚感覚で構成された立体概念に視野の射影像の空間性が投影されて、空間における物質概念が確立される。聴覚の発達段階では、直列に聴こえる音の流れや響きにより、時間を伴う空間概念「時空」が構成されていく。これらの物質概念、空間概念、時間概念が総合的体験の基礎となり、体感·体験の縮約である言葉の概念が構成され始める。さらに言葉によって事象と事象を橋渡すことが可能性となり、関係性の概念が形成される。そうして関係性の概念が基礎となって関係性における価値基準が生まれ、関係性と価値基準の複合的総合的な構造体としての自我意識が確立されていく。

段階的な発達過程と書いたが、実際には瞬間瞬間の中でもこの段階的な発達過程はループ的に繰り返され、旋回的発現して、人間は成長していく。人体においても各器官は並行して相補的に発達していくし、意識の構成と身体の発達は重要な連携性があるとみる方が自然だ。



意識の構成

一般的な心理学では、人間の意識、自我は、「意識/表層意識/顕在意識」と、それを支える「無意識/深層意識/潜在意識」とで構成されるとしている。ピラミッド型や氷山型で表され、上位の構造を下位の構造が支えている形となっている。前述の「発達過程にみる意識構成」はまさに同じ構造となっているので、この一般的意識モデルに当てはめるなら、次頁の図の様になる。



身体と空間の関係性の中で物質概念、空間概念、時間概念の基に知覚体験がなされ、それを基盤とした体感·体験の縮約としての言語や、事象と事象の関係性、価値基準が想起されて、それらの上に自我が確立されていく。意識を支えているのが無意識なら、身体領域で生起されている体感·体験、あるいは各概念はまさに無意識に相当すると言える。



心理学では無意識と呼ばれる領域はどこに在るとも解らない「隠れた領域」として扱われているが、この構造が示しているのは、無意識は隠れてなどいなく、第一人称視点の世界とワタシの境界で起きた化学反応が身体として結実して「ココ」にある、ということを示している。



主観の意識構成


客観的観点からではなく、第一人称視点から世界を組み立て直そうとした現象学は、主体体験は時空の中に投げ出された人体としてのワタシではなく、目の前に視えている射影像としての純粋知覚をベースに世界を紐解こうとした。その現象学の起点のひとつとなったマッハの知覚体験図は左目から視たワタシの世界が描写されている。


マッハ本人の左目からは眉毛と鼻、ヒゲが視えていて、その下部からは身体が伸び出ている。一般的な意識で見ると図に空間性を見出し、身体の空間的配置が想起されるが、純粋知覚の観点は空間性を持たない射影像だ。

さて、前述の意識構造モデルをこのマッハの視覚体験図に当てはめてみよう。

触覚で物質性、視覚で空間性、聴覚で時空性(空間+時間)が見出され、統合的な事象概念が出来てくると、視野光景が意味を帯びてくる。「視る」が「観る」へと変化する。事象と事象の関係性や、その上に成り立つ価値基準で自我が構成されるなら、マッハの視覚体験図では「観ている光景」がまさにそれに当てはまる。そして「観ている光景」(ある事象群)が成立する物質性、空間性、時空性は光景の背後に潜在的に構成されていることになるが、その物質性、空間性、時空性は身体によって想起されている。そしてそれらは自我意識を支える下部構造なので、無意識に相当する。すなわち主観から観た世界においては「観ている光景」が「自我意識」に相当し、「身体」が「無意識」に相当する。


時空間と身体はかの有名な「ルビンの壺」の図と地の様な反転関係にあるが、人間の意識は時空を認識出来ない。物質性、空間性、時空性は身体によって想起されるが、人間の意識上は時空間の反転構造として顕れている身体のみが観えている。第一人称の光景はワタシの意識そのものとして捉えられ、それを支える世界の時空性は反転して身体として顕われている。(主観的)ワタシは(人間的)私を通して(世界的)ワタシを観て(肉体的)私と成っている。



意識と身体


乳幼児の発育過程における知覚·認識の構成過程は、知覚器官の発達に伴って成されるとされているが、主観においては意識の構成過程に伴い身体が形成されていくともとれる。「相反共存」の考え方を用いれば、客観では身体の成長·知覚器官の成長に伴い意識が構成され、主観では意識の構成に伴い知覚器官および身体の成長が成されている。身体の発育に伴い自我も発達し、自我が世界への作用力を拡張する過程に併せて身体も発達していく(例:自立する:身体的立ち方の発達に拠る意識への影響←→意識の発達による身体的立ち方への影響)。自我意識の発達では、様々な関係性や価値基準の構築が伴うが、それらも体感·体験を元に関係性や価値基準が構成される見方と、関係性や価値基準の構成という意識と世界の化学反応が身体上の体感·体験として顕われるとみる見方が出来る。

自我を構成する大事な要素である「感情」は、世界の変化に対する身体の反応、臓器や器官の反応を基に構成されている。快不快が感情の中心の乳児は内臓も運動器官も未熟だが、内臓などの臓器器官、運動器官などの発育に伴い「感情」も複雑化していくし、感情の発達に合わせて身体の各器官も発達していく。そこへ関係性の概念や言語概念が加わる事で(痛みを感じる→親が痛いねと言う→痛いと思う、涙を流す→涙に気づく→悲しいと思う、等)感情はより複雑な相補的構造として構築されていく。

自我が自我として維持される為には「記憶」もまた欠かせない重要な要素だ。記憶とは、時系列的に過去の光景や感覚だが、それらは体感·体験を基に成り立っている。体感·体験は身体によって成されるが、体感·体験は同時に自我と世界との関係性でもある。自我は「記憶=世界との関係性」を累積することでその構造をより強固に(関係性が多い程自己規定要素が多くより自我が高解像度になる)し、同様に体感·体験(世界との関係性)を蓄積することで身体も発達していく。すなわち身体とは記憶の累積体とも言える。

一方で、記憶とは時間概念の上に成り立っている。人間の知覚は「永遠の今」としての「現在」のみを知覚している。「永遠の今」とは「変化し続ける今」でもあり、知覚の痕跡は体感·体験として身体に蓄積される。身体への蓄積は、世界への蓄積をも意味する。記憶が蓄積される程に自我意識はより緻密に組み上げられ、主観世界もより解像度が高くなっていく。

そして記憶の反芻が「現在」の知覚に準じて想起されるが故に記憶は常に「現在」に紐付けられ、連綿と続いてくる「現在」の経緯を形作る。


意識の構築と身体の発達は重要な相関関係にあるし、それぞれは同じものの別側面の顕われと捉える方が自然だ。

身体とは、客観的世界と主観的世界の交差点だ。客観主眼で世界を観ると身体は肉体としての人体として顕れるし、主観においては意識構造の顕われとしての身体として顕れる。世界はどちらかだけが真実でもなく、どちらで観るかでもなく、どちらも世界の姿だ。

客観性は主観性を根深いところでも支えているので決しておざなりにすることはできないが、客観に偏った現在においては主観は新たなる世界概念の切り口と成り得るだろう。

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