改めまして、Ricardo(リカルド)です。
本記事は、恥を晒す覚悟で書きました。
何を書いたか。
思考性に傾倒しすぎて世界の半分が見えなくなってしまった経緯を書きました。
何故書いたか。
自分自身への自戒の意味合いと、同じような状況に陥った人の参考になればと思い記しました。
それでは、ボク自身の立ち位置を振り返るところから始めてみます。
2007年ごろに半田広宣氏の著書「2013:シリウス革命」との衝撃的な出会いを経て、初期のヌーソロジー専用SNSサイト「ヌーソロジー・ロッジ」を構築、東京地区のヌーソロジー勉強会「東京ヌース倶楽部」の開催、自身の子供の成長にヌーソロジー構造を見出した「意識と身体と空間の三体論」を展開、半田広宣氏の東京ヌースレクチャーの支援をしながら、現在はヌーソロジー情報の音声番組「NOOS WAVE」の制作に関わっています。
ヌーソロジーとの関わりを持ち続けることで、同好の士と出会い、語らいあえる場を作りたかったので、色々な形でヌーソロジーに関わる活動を行ってきました。
そのおかげで、自分自身もヌーソロジーの勉強を深める機会に多く恵まれました。
その成果の最たるものが、自分の子供の成長にヌーソロジーの構造を見出した「意識と身体と空間の三体論」です。
「三体論」の構築には、ヌーソロジーとともに「東京ヌース倶楽部」で出会った「Animandala」の天海ヒロ氏からも多くのアイディアをいただいたことで現在の「三体論」にまで至ることができています。
ヌーソロジーに出会う以前は、10代で神智学に興味を持ち、自分なりの宗教研究を行い、20代ではニューサイエンスに触発され、20代後半から30代前半では複数のチャネリングの書籍を読みながら、自分なりに「宇宙の原理は『差異』である」という個人的な宇宙の構造感を持っていました。
大筋では、10代から精神世界に興味を持ち、30代でヌーソロジーに出会ってから、東京圏でのヌーソロジーの同好の場を作ってきましたが、ヌーソロジーに興味をもったヌーソロジー学習者を牽引してきたつもりは、実は無いのです。
そもそもヌーソロジー自体がマイナーでしたから、同好の人を見つけるのも難しく、かつ半田広宣氏の拠点が福岡なのもあって、ヌーソロジーはおのずと福岡を中心とした活動となっていたので、せめて東京圏でヌーソロジーを語り合える場や出会いがほしいという気持ちで動いてきました。
そして、これはヌーソロジーがインターネットを通じて全国に波及してきた現在でも同じ気持ちです。
半田広宣氏やヌース・アカデメイアの活動のおかげで、インターネットを通じて気軽にヌーソロジー情報に触れられるようになった現在でも、日常の生活圏にヌーソロジーを語り合える同好の士がいる人はまれ(だと思ってますが)なので、想いや思考を馳せることのできるインターネット空間で、同好の士との出会いがあれば、そしてそれによって思索を深める機会が多くの人にできれば、と考えています。
では、何があったか。
本記事の主題に戻ります。
ヌーソロジーの何に魅力を感じたのかといえば、真理を見出していく構造観がこれまでの精神思想とはまったく違うところです。
宗教は、神を信じるか、導師を信じるかを強要されます。
哲学は、言葉の檻の中で論理を強要されます。
科学は、物質智を強要されます。
スピリチュアリズムは、自分を信じろとは説くものの、それが説く宇宙観と現実が紐づきません。
ところが、ヌーソロジーは、そもそも自己他者の双対構造であると言います。
その交わりと交替が宇宙を脈動させていると説いてきます。
そしてその交わりの結果が物質だと説明します。
この構造観の尋常の無さに鳥肌を立てた方は多くいらっしゃるかと思います。
ヌーソロジーの魅力を語りだすと本論から大きく外れるので、これ以上は控えますが、OCOTのシリウス言語によるチャネリング体験をした半田広宣氏が30年かけて構築してきたのが、現在のヌーソロジーです。
当初はヌース理論と名乗っていたように、OCOTの示唆によるヌーソロジーという宇宙観を、半田広宣氏が私たちへと伝え渡すために、理論化しようと試みましたし、現在でも体系化された概念として練り上げて、言語を通して私たちに伝えてくれています。
ボクもその概念に触れ、自分でも考え、構造観を何度も反復して「思考」を続けてきました。
ヌーソロジーの人間精神の構造の肝には、思形と感性という構造があることもその魅力のひとつです。
ボク自身も、子供の成長や人間の発達にその思形と感性の双対構造の射影を見出して、興奮して「思考」し続けてきました。
でもその「思考」を続けてきた中で、いつの間にか見えなくなっていたものに気づかなくなっていました。
「思考」は言語で概念を練り上げますし、あらゆるものを対象として取り扱います。
そう、あらゆるものが「思考」の「対象」となります。
「対象」とする、とは目の前に置き、見る視線の先にある存在とする、ということです。
自分自身について思考したとしても、思考されたものは自分自身ではなくなりました。
頭の論理空間の中で扱われる対象物になっていきました。
私たち人間には、言語化できない無意識領域が膨大にあるはずで、考えればわかることですが、自我意識は無意識領域のほんの一部なはずです。
無意識をも思考対象として、人間精神構造の探求を行なったとしても、概念化できない言語化できない領域はかならずあるはずです。というよりそれらの方が多いでしょう。
一方で人間精神を対象として思考を続けていると、思考しているそのことだけで、人間精神を理解した気になってきます。
既成の思考の枠組みを取り払い、新しい思考の枠組みを使うことで、世界の構造の真理を垣間見た気になっていきました。
何に気づかなくなってしまっていたのか。
自分自身の無意識領域、感性に属する領域の情動、感情、感覚です。
半田広宣氏は常々「ヌーソロジーを自身の生の現場に下ろさないといけない」と口酸っぱく発信されていますし、半田広宣氏にはNOMI体験、OCOT体験という強烈で膨大な体験情報がありますが、それらはどうあがいても、言語と概念という狭い通路では通りません。
半田広宣氏は、膨大な体験情報がこぼれ落ちていくのをおそらく承知の上で、ヌーソロジーを人類の共通了解の智恵とするべく、あえて概念化という手段を選択し、言語化という変換作業をし続けているのだと思われます。
言語で築き上げられた概念体系は、高度に抽象化されていきます。
高度に抽象化されたもの、それはある意味、地図であり、設計図とも言えます。
ヌーソロジーも、半田広宣氏の膨大な体験や情報を、削って削って削って、極限まで削って、点と線にまで絞り込んだ状態で書き込んでいる精神や宇宙の地図なのではないかと思います。
「地図」があるなら「現地、現場」が存在します。
私たち人間の「現地、現場」とはなんでしょうか。
私たち人間は、ひとりひとり違う「現場」をもっています。
それは身体であり、環境であり、人間関係です。
さらに、身体や環境や人間関係という構造に、情動や感情という絵の具で色鮮やかな世界観を醸し出しています。
ボク自身は、子供の成長を通して、人間の発達を通してそれらを見い出してきたつもりでしたが、いつのまにか思考の対象としたまま、自身の「現場」に立ち、その景色を望むことを忘れていました。
上空から地図をもって地上に降下した場合、地図の景色と地上の景色が全然違うことは想像がつきやすいでしょう。
ドライブで、ナビの画面だけを見て運転ができないのも言わずもがなでしょう。
地図は確実に指針になります。
とくにヌーソロジーの地図は、これまでの地図とはまったく違う構造の地図です。
だからこそ、地図をなぞるだけでなく、自分自身の「現場」に新しい地図の構造をどう見出すか、が重要なのだと、ようやく思うに至りました。
自分自身の「現場」に降り立たないといけない、もうひとつの構造的な理由があります。
私たち人間が「思考」できるのは自我という領域の中です。
自我は膨大な無意識という領域によって成り立っています。
無意識には身体も空間も時間も、そしてその中で生起するいろいろな関係性も含まれます。
当然、人間はそれらの構造や存在をそのまま知覚、認識できないので、知覚器官を通して感覚として、あるいは感情として自我において認識されていきます。
ヌーソロジーは無意識領域の中で成り立っている現代の時空間概念自体が、実は違う構造だったとその地図で示しているわけです。
私たちは、自我領域の配下で蠢いている無意識の領域で、現代の時空間概念を成り立たせています。
どう違う構造であるのかを、ヌーソロジーの地図は示してくれます。
ただし、それを実際目の当たりにするためには、地図をなぞるだけでは見えてこないかもしれません。
自分自身の「現場」で無意識領域に接していかないといけませんが、無意識領域は非言語領域です。
だから「感性を通して思考しろ」と半田広宣氏は言うのではないでしょうか。
天海ヒロ氏のAnimandalaでも「まず感じて、それから考えて、そしてそれ繰り返す」と説きます。
構造を変える領域は自我ではなく、無意識領域であるなら、無意識領域に入るために非言語領域に向き合わないといけません。
そしてもうひとつ。
昨今のヌーソロジーの時間概念で使用されている、時間のスイングバイ構造があります。
時間が持続的奥行きの中をスイングバイして現在として現出するその構造は、持続的な奥行きを見出す大きな構造的示唆です。重要な「地図」です。
持続的奥行きをスイングバイして現出してくる現在という時間は、弛緩して経験的なワタシが存在可能な客体的な空間となります。
一方、持続的な奥行きの方は、時間の始まりから現時点までを一点同一視した場です。
経験的なワタシにとって持続的な奥行きとは、生まれてから現時点までのすべて、言い換えれば人生そのものと言えるのかもしれません。
そして経験的なワタシは、自分の位置を「現在」に置いてしまっていると半田広宣氏は言います。
本来的には過去の総体の位置に立たないといけない。
ヌーソロジーはそういう地図を示しています。
過去の総体の位置に立つためには、過去の総体の位置を知り、過去の総体と向き合う必要がありそうです。
過去にコンプレックスや課題がある場合、その時点を客体化する傾向があるので、過去を総体として捉えられなくなりそうです。
恥ずかしながら、今回の記事を書く直前まで、思考性に傾倒して感性や無意識領域が見えなくなってしまっていたことに悔やんで落ち込んでいました。
自分は持続的奥行きをわかっている気にもなっていたし、なんなら外面の視座を見出したとも思っていました。
ところがそれらはわかった気になっていただけで、持続的な奥行きすらも見出せていなかったと知ったときは本当に自分が情けなく、不甲斐なく感じました。
これまで何をやってきたのか、どこに原因があったのか、どこから間違っていたのか、くよくよと過去を振り返って原因探ししていました。
過去の因果に今できていない理由を求めてしまう、この思考ロジックがよろしくないのだと気づくのにも時間がかかりました。
「ボクは過去を振り返り、きちんと向き合って解析しているから、過去を総体的に捉えている」とすら考えていましたが、その実、過去の一点に拘って今できていない理由としていただけでした。
それは今回の件に限らず、あらゆるところで言い訳をする性格にも射影されていました。
そういう意味では自らの時間のすべて、人生とありのままに向き合える意識の状態となるためには、自らの蓋をしてしまっている感情とも向き合わないといけなさそうです。
天海ヒロ氏が展開する「Animandala」の「内巫女と内審神者の幸せな結婚」(天海ヒロ氏はその幸せな結婚が容易ではないと理解したうえであえてそう題した)レクチャーシリーズで語られていた、ウニヒピリを抑え込むウハネではなく、ウハネがウニヒピリの手をとり、アウマクアへ至ること。これも、みずからの無意識領域と向き合わないと通れない道ではないかと思います。
自らの「現場」に立ち、無意識領域に立ち入らないと、ヌーソロジーの地図は見えてこないのではないかと、ようやく思うに至りました。
これまで何のために何の活動をしてきたのか、を思えば恥ずかしい限りです。
ヌーソロジーの勉強会やSNSでヌーソロジー解説なども散々してきましたが、その実態は、ボク自身もようやく自分の「現場」に立とうとしているところでした。
ヌーソロジーに出会い、Animandalaに触発され、三体論を作って、また自身の「現場」に立ち戻ったのかもしれません。
川瀬統心氏は、2020年までは元止揚空間(ψ1〜ψ8)の年で、2021年から思形ψ9、2022年が感性ψ10の年だと言います。
ここから改めて「感じて、考える」を始めようと思います。
今度はワタシ一人の世界ではなく、ワタシとアナタの交差する世界を見たいと思います。
以上。
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