三体論は意識と身体と世界を分離してみる思考ではない。
むしろ同じものとして見ようとしている思考である。
身体と世界(観)はお互いが裏返った関係とみる。
意識もまた裏返って現れた身体と世界の間に生まれたものとしてみる。
それは個別単独で存在するものではなく、身体と世界の表裏の関係性の狭間、いやむしろ身体と世界の蝶番といった方がいい。
表裏の関係とその蝶番は、それぞれ反映し合うし、影響し合う。切っても切り離せない関係にある。
意識が蝶番なら、意識の成長、発達は自らの身体と世界(観)の成長と発達を伴う。
また身体と世界(観)が成長、発達するから意識が発達、成長する。どちらでもある。
意識の階層で身体と世界の対応を乱暴に区分するなら、
顕在化した意識層(表層意識):手の届く範囲の空間世界と自覚される身体感、今
潜在化している意識層(無意識):手は届かないが見えている世界観と、無自覚ではあるがそこにある身体感、これまで体験体感してきた身体感・世界観、いわゆる自分自身の成長発達過程
集合的精神構造層(集合意識):知覚されない間接的な世界観(社会構造から地球まで)、ホモサピエンス種としての身体および身体構造に含み持つ人類進化までの生命進化の過程
と言えるかもしれない。
意識は主体観と客体観を往来しながら成長、発達していく。
主体観とは純粋知覚からなる直接的な身体感、世界観で、直接的に視えて、直接的に感じることの出来る身体と世界の空間である。
客体観とは間接的な身体像、世界像であって、他者の眼差しを介して自らの意識に取り込んでいる。
それでは他者の眼差しとは何か。
他の誰かの眼差しであって、他の誰でもない眼差しである。
他の誰でもない他者の眼差しは、他の誰かの眼差しの束でもない。
目の前のアナタの瞳の奥に潜んでいるものであって、時間でもある。
(時間が他者の眼差しとは、奥行きに重畳する主体の時間とは違い、客体の時間は空間化し奥行きを幅化するから)
ただし、目の前や周りの他者はアナタであってワタシの映しでもある。
ワタシにとってのアナタはワタシの世界に登場しているワタシでもあり、常にワタシに再解釈され続けているアナタでもある。
主体観とは、前の奥行きと身体の奥行きに生起していくものであり、客体観とは空間化した時間と幅化した時間で生起しているものである。
それらは壮大な遥かな彼方と此方からなる精神の構造そのものでもある。
構造という言葉が気に入らないなら関係性でもいい。
感情や思考、意味はその中に生まれる。
これらの構造(関係性)に名前などない。
コレであり、ソレであり、ただそうあるだけなのだ。
好きな呼び名で呼べばいい。
意識と身体と世界の三つ巴の構造のうち、意識は目であり芽である。
身体(空間)と世界(空間)を基盤に新たなる構造を、新たなる宇宙を生み出さんとしている芽である。
意識構造、意識空間を構築し、やがてそれは新たなる宇宙となる芽である。
生命の歴史を経て、人類の歴史を経て、意識は新たなる芽を育むべく、宇宙を育むべく成長、発達してきた。
それはまだ卵かもしれない。いつ羽化するかわからない。
でも羽化の時期は間近かもしれない。そうでないかもしれない。
ある意味でそれは意識の剥離なのかもしれない。
誰かの、ではない。アナタのでもない。ワタシのでもない。
でもアナタの一部であってワタシの一部でもあるのかもしれない。
それは気づかないうちに起きるかもしれないし、気づいたワタシはすでに気づかないワタシではないかもしれない。
それを救済やアセンションと呼ぶのは好きじゃない。
いや、そう呼びたければいくらでも好きに呼んでもいいが、それはただただ変化、変遷であること変わりはない。
そうであってそれ以上の何でもない。
そこに何を求めても、その「求め」は個体・人間であるから発生するもので、精神の変化の過程では意味をなさなくなるかもしれない。
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