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執筆者の写真Ricardo Tommy

モノ/コトの見方、捉え方

更新日:2020年5月25日

時代は古ければ古いほど人々の識字率は低くなる。必然的に字の読めない人には絵で説明せざるを得ない。絵で理解してもらう為には認識され得る構成要素を用いる必要がある。説明言語が無い対象物は類似物や疑似物で描かざるを得ない。 現代文明に触れた事の無いどこかの原住民が、自動車を生まれて初めて見て、黒い大きなイノシシだ!とするマンガ表現がよくあるが、その通り、原住民が理解/認識出来る範囲ではイノシシなのだ。 ドラマ坂本龍馬で、黒船を生まれて初めて見た龍馬が恐れ慄いて刀を振り回したが、あの反応もしかり。おそらく龍馬には船に見えていない。馬鹿にしてはいけない。我々みんながこの様にして世界を認識している。 夢を壊す訳ではないが、サンタクロースは赤い服の恰幅の良い白髭のお爺さんでは元々無かった。ローマ帝国時代の小アジアの司教がモデルらしいが、その後様々な世代の様々なコンセプトが重なって現在の姿になっている。 例えばある文献において対象の途方もないスケールを表現したくて「山の様な」が山の描写に結びつく。時代を経ると、それが「どこかにその山が存在する!」と言う解釈になり得る。事実そういう解釈も多い。「町のおばちゃんの噂話」は時代を経て堂々と行われてきているのだ。 大自然全体を統括する様な位置づけに何某かの存在を想定するなら、素直に考えればその様な存在が限定的な一存在の人間の様な姿形をしているとするのは思考が狭い様に思える。例えば、荒天→「何かが怒っている様な」→「怒る」のは人間→神は人間の様だ→神は人の姿形が似ているに違いない。 悪魔しかり、天使しかり、妖精しかり。それぞれは何某かの意味性や存在性を表わしていたはずなのに、いつのまにか一表現だったはずの姿形が重要とされてしまっている。 我々は堂々と町のおばちゃんの噂話を続けているし、我々の認識能力は非常に限定的だ。表象が問題なのでは無いと思えてしまう。存在性や意味性をもっともっと掘り下げていいはずだとも思う。 そうした中では、我々それぞれが別々なモノの見方をして、別々な解釈や考え方をするのは大した問題ではない。至極当たり前の話ともとれる。問題は何を見ようとしているのか、だ。 事象の偶然性と必然性の問いがあるが、想いの行動化によって引き起こされる事象は必然であるが、この世界において「必然」として起こり得る事象は可能性と言う名の多様性を持つが、「私」においては一つの事象として現れ出る。私においてはだから必然性が奇跡性を持ち得るのかも。 だから必然も偶然も奇跡も共存しえる。表裏の関係ではないかと。 いや、世の中は特別なことだらけだ、とも言える。奇跡の連続だ!私自身が奇跡だ!とも。

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