知覚器官は皮膚と神経による構造体だが、各知覚器官自体は皮膚をベースに発達したと考えられている。そういう意味では、我々の世界知覚は、5化した1によって成されている。五感覚(5)へと分化した触覚(1)の世界。1は「本質的な5」を内在しているが、(触覚の内的に構成されているという意味で)内部空間に顕在した知覚器官は触覚という名の銀幕に映し出された「本質的な5」の射影である。五感覚によって認識されている世界とは1としての触覚の内部空間とも言える。
人間の知覚器官は5化した1だが、触覚、視覚、聴覚という三大知覚に見られるように、3を内在した5だ。触覚においては光は潜在化しており、視覚で光は顕在化するも、聴覚で光は内部空間化され音という振動となって触覚的構造へと再帰する。そこでは1(触覚)が3(触覚/視覚/聴覚)、5(五感覚)という脈動を、2(自己と世界)、4(自己と世界×自己他者)という構造的旋律を従えて呼吸する。
1(触覚)の内的に空間化した世界における「空間」と「時間」は本質的な空間と時間そのものではなく人間においては1(触覚)に射影されたものだ。そこにおいては「原因と結果」という関係性は1(触覚)の内に射影された時間に依拠するが故に「原因と結果」という関係性自体も1の内的な認識ということになる。人間だからこそ流れゆく時間が認識されて、原因という事象と結果という事象とを結びつけて捉えることとなる。
人体という身体をもって生まれた人間は環世界という自らの世界を携えて成長していき、そして共に環世界も変化していく。ここで、環世界を自らの認識世界というのみに留めず、もう一つの成長する身体として捉えることも出来よう。奥行きという背骨と、幅という血肉をもち、自我構築の基盤となって成長していくもうひとつの身体。その世界という身体において事象同士の関係性とは栄養素と酵素や、抗原と抗体の反応の様なものかもしれない。 ここでカラダとは何かということをよく考える必要がある。人体・肉体とはひとつのカラダの在り方である。カラダとは意識の拠りどころ、という捉え方は客観的なものの見方だが、意識の拠りどころという意味では世界もカラダの対象となる。意識とは世界の次元と身体の次元の狭間に存在するとすれば、カラダとは肉体のみにあらず。肉体とはカラダの一つの形態に過ぎない。世界側もカラダとして考える方が自然だ。 人体では脊椎がその肉体構造を支え、内臓や筋肉などで(文字通り)肉付けされているのと同様に、奥行きによって世界は支えられ幅によって肉付けされている。但し、同じひとつの肉体には主観的肉体と客観的肉体という側面がある様に、世界というカラダにも主観的世界と客観的世界という側面がある。世界がもうひとつのカラダだというと世界=ワタシという捉え方が挙げられるが、ここでの世界とは狭義の直接知覚世界のことだし、意識も客体化によって世界から隔絶され肉体に縮こめられた為、世界と自我の結びつきについては潜在的構造と顕在的構造の考慮が必要だろう。
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