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執筆者の写真Ricardo Tommy

愛の幾何学

 愛とは何か?

 感情なのか?

 行為なのか?


 その昔、「愛の論理」なる書籍があって、それは情念的な愛をも含めて、愛をジャンル分けしてみたり、マトリックスにマッピングしてみたり、していた。

 そういった愛の形態の中で、いかに純粋な愛と思われる方向性へとチューニングしていくか、みたいな内容だった様に、淡く記憶している。

 だが、ボクなりには、子供の頃から愛とは行動や関係性の形態を便宜的に愛と呼んでいるのではないか、どこか構造的な形態の在り方を便宜的に愛と呼んでいるのではないか、という感覚はあって、愛という情動・情念が自らの内に特別に存在しているという見方や、無条件的に世界は愛だとする意見に違和感を感じてきていた。


 結論から言ってしまうと、ヌーソロジーでは、ψ7、ψ8の元止揚空間の、人間的な意識の構造感が愛と呼ばれる意識形態の基盤となっている解説を聞いたときに、すごく納得したのをはっきり覚えている。


 元止揚空間とは何か?

 ヌーソロジーでは現象学的に、自己にとって世界を構成している「前」と「後ろ」を明確に区別し、五感覚が成立する空間感覚の中で、「わたし」の「前」と「後ろ」と、「あなた」の「前」と「後ろ」の四対の組み合わせで、世界の構造を捉えていく。


 「わたし」にも「あなた」にも他者には代え難い「主観」があり、お互いはお互いの主観の中に相手を見出す。またその一方で「客観」と呼ばれる他者の視線をも意識し、見られることによって成立する「わたし」と「あなた」をも同時に構造として踏まえている。


 この構造感をヌーソロジーでは双対構造と呼び、世界は双対構造の形態的精神によって幾何学的に構築されているとしている。



 さて、振り戻って、「愛」とは何だろうか?


 マザーテレサは、「愛」の反対語は「無関心」だと言ったそうだ。

 同時に「ありがとう」の反対は「当たり前」だそうだ。


 これを構造的に捉えるなら、同一性との差異という形で「愛」を捉えられるのではないかと思う。


 「無関心」や「当たり前」とは、その対象事象を、その対象の背景と同一性をもって潜在化させてしまう状態を言っているように考えられるのではないか。

 「わたしにとってそれは、感心の無い他のものと同じように感心が無い」


 一方で「感心がある状態」とは、その対象事象を、その対象の背景とは差異がある、同一化していない状態として捉えていることのように考えられるのではないか。


 一般的な言い方では、「感心があり、その対象存在を受入れる」ことを感謝や、そして「感謝をもって関係性をつくる」ことを愛と呼ぶなら、愛とは、「対象に感心をもち、感謝をもって関係性を築くこと」とも言えるのではないだろうか。



 もう少し別の言葉で言うならば、「無関心」や「当たり前」の対象が同一性に埋もれる状態は、「わたし」の主観的「前」が「わたし」にとって特別であることの反対として、「わたし」の「後ろ」や「見られるわたし」はその他と同一化させてしまう客観性の視点から成っているとも思える。


 平たく言ってしまえば、「愛」や「ありがとう(感謝)」が「わたし」の主観的「前」の要素を強くもっているのに対して、「無関心」や「当たり前」が「わたし」の客観的「後ろ」の要素を強くもっている、とも言えるのではないかと考えている。


 倫理はロジカルに解説されることはあまり聞かないが、こういう構造感をもって捉えることで、「わたしにとってどう大事なのか」を考えることの重要性は、構造的に意味があることが見え易くなってくるのではないだろうか。



 (この先はボクの推論・独論に入ってしまうが)もっと突っ込んで言うとすれば、ボクたちが「愛」だと感じている感情・情念は、「愛」や「感謝」、「無関心」や「当たり前」といった現象として現れた「わたし」にとっての「場面(現象)」を、内臓に由来する「感情」感覚にて捉えて反応している状態なのではないだろうか。

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